「神を認める」  02.01.10   ヨブ42:1〜6、ヤコブ5:7〜11

 ヨブ。このとても信仰篤く、正しい人に、次々と悲劇が襲い掛かります。
財産を失い、家族をなくします。それでも彼は、<わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。>(ヨブ1:21)と
神をほめたたえます。更に彼は重い病にかかります。
 彼の悲劇を見つづける妻は、神をのろって死んだ方がましではないかと言いますが、
本人は「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と、妻に返答します。

 神に対する徹底的な信頼の姿に、はっとさせられます。
幸いを与えられることだけを喜び、取られることや不幸を味わうと、すぐ神を呪ったり、
不信感を持つ悪癖が私たちにはあるからです。
 ところが、神に対する深い信頼に生きていたヨブも迷い始めたのです。
どうしてこんな目に会うのか。その納得できる理由をさがしはじめたことによってです。

 人間には、物事を合理的に考え、判断する知恵が与えられています。
それによって生活が整えられます。苦しみに出会うと、この知恵がフル回転して、
その原因を探します。原因がわかれば、苦しみに耐えられるような気がするからでしょう。

 しかし、その知恵は、すべての事柄に及ぶものではないのです。彼は、この苦しみの
原因がわからなくなった時に、神が間違っているとしか考えられなくなりました。
神を告訴するとまで言い出します。知恵は、悲しみを怒りに変えることはできましたが、
慰め励ます力とはなりませんでした。ここに人間の知恵の限界があります。

 神は彼に、あなたは神なのかと問います。知恵の限界を持つあなたではなく、
わたしが神だと迫ります。
 神を神とした時、もう一度彼は、神への信頼を取り戻しました。
限界のある人間の知恵によるよりも、神への信頼に自分の生きる場所を見つけました。
 悲しみの原因究明に縛られるよりも、私たちを救うとおっしゃる神の宣言に
縛られたいのです。

目に映るものを、この救いの宣言以上に信じる必要はないのです。